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さて今ごろになって、こっそりと。


by sakuranosoushi
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創世記で文句あんの?

読み込む作業が半分以上終わりつつあるので、
そろそろ構成下書きに入らなければならない私の論文ですが。。。

ま、興味ない人は読み飛ばしてください。
ブログに書いていたり、誰かに説明してる段階で、
はっと違う視点に気がついたりすることがあり
それを目当てにこのタイトルで書き込んでいるだけですので。

政教分離、信教の自由は米国憲法修正1条、2条に定めがある。
(ある、とここで断定してしまうのは少々語弊があるが。。)
1787年に憲法制定準備が始まったが、トマスジェファソンが「the Bill of
Rights」を進言。(基本的人権を定めた法案) 初回議会でジェームスメディスン
により修正12箇条が提示され、その後上院下院で修正10箇条が可決される。
この10箇条がいわゆるthe Bill of Rightsである。

そのうちのひとつである信教の自由という思想、ジェファソンはジョンロックに
強く影響を受けたといわれており、the Bill of Rights可決後にジェファソンが
宗教条項に関して残した書簡で彼は

「宗教条項の目的は、教会と国を分離させることである」

と言っている。
法の裁きを考えるにあたって重要視されるのは立法者の意思であるため、
(立法者の意思は国民の声の代弁であるべきということで)
現在に至るまでこの彼の言葉は宗教条項関連の裁判では
繰り返し引用されている。

そしてこの立法者の意思によって政教分離に関するものは解決される・・
はずだったのが、そう簡単にはいかなかった。というのもthe Bill of
Rights は議会によってのみならずいくつかの州議会によっても採決
されたものであり、(当時の独立13州以外はどうなるのってことで)
国民総意といえるかどうか自体が不確定という特色が
裁判所に「立法者(=国民)の意思によれば」と断定できない困難さを
もたらした。
(例えば今現在でも「米国はキリスト教徒によって建国された国であり、
独立宣言、憲法の背景にキリスト教色があるのは当然の前提」
と考える人も少なくない)
ただし、the Bill of Rightsは当時「採決した人々」の意思であり
それらは「どのように政教分離をあつかうか」を考える上で重要な役割を
もつ、という位置付けはされている。

さて、問題の修正第一条。

Congress shall make no law respecting an establishment of
religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging
the freedom of speech, or of the press; or the right of the
people peaceably to assemble, and to petition the
Government for a redress of grievances.

ので修正第一条は「the Establishment Clause」とよばれたりします。

問題は・・・・

信教の自由はあるけど、
どこにも政教分離しろ!とは書いていない~ってこと。(日本国憲法も
同様)
よって、この条項がどこまで厳格に国と宗教(主に教会)を分離するか
を定めていると解釈するかが争点になるわけです。
また修正2条による「自由の行使」とも抵触して、国がどこまで宗教活動
を制限できるのか、という問題にもつながってきます。

公立学校における教育にも波及。
1900年半ば以降、公立学校で「キリスト教による祈り」の時間を
定めるのはいかがなものか、という裁判からはじまり、
ペンシルバニア州法にある「聖書読書時間を公立学校に設ける」という
ものが合憲か違憲か争われたものなど。

進化論に関しては
1968年のEpperson v. Arkansasではアーカンソー州が定めた
「進化論を公立学校で教えることを禁じた」法律の違憲性が問われた。

ざっと見ていくと、Epperson後は最高裁で
「キリスト教観に基づいて進化論を禁じる州法は修正1条に反して違憲」
というものが浸透し、徐々に進化論が公立学校で認められていきつつ、
一方で、では公立学校における宗教活動の是非はどこまで制限される
べきのか、という議論がもちあがり、宗教活動v修正一条にシフトしたのが
1970年以降。
その後ばぼちぼちだったこの手の議論だったのが、
レーガンブッシュ時代にあらわされるように新保守派が増え始め、
それにともなって進化論バッシング(バッシングというよりは、
進化論に対抗したキリスト保守派の新手技)が世論に出始める。
この新手技というのがIntelligent Designという考え方で、

「人間が徐々に猿から進化を遂げたという進化論は
一部分証明された理論にすぎない。
人間がつくられた起源は、何かしら全知全能の力が働いていると
考える理論が科学的には妥当性がある」
という考え方。

これに対して進化論支持派は「議論が50年前に逆流してる!」
と猛反発。

なんか疲れてきちゃったので中途半端なところでやめておこう。
もう寝なくっちゃ。

驚いたのは

「Intelligent Designを教えるべきと州法が定めるのは
修正一条に反して違憲かどうか?」

という問題なのかと私は今まで思っていたんだけど、

Intelligent Desing派は
「進化論は科学的な曖昧さがあり、これのみを主流の理論として
教えることが問題があるんじゃないか?」
というアングルで議論を進めているものが多いということ。

これはショッキングだった。
私自身、進化論派かIntelligent Design派かという立場を
決定するのはできるだけ長く保留したまま双方の主張を読もう
と思っていたんだけど、

Intelligent Design派が
IDはどれだけ科学的に合理性がある理論で、政教分離に反しない
ものである、という守りの論を広げているものとばっかり思っていた
ので、

いや、そうじゃなくって進化論がおかしいんだってば!

と攻めの姿勢であっさり主張されると、

へ?
え?

とそれこそ鳩に豆鉄砲の状態だったので。
ということはつまりは、立場未定とは思っていても既に私の中には
進化論が当然科学的に証明された王道理論という前提が存在してる
ということになってしまう。
こりゃー進化論を疑ってかかるところから入りなおさなくっちゃ。
いやはや、困難じゃ。。。
by sakuranosoushi | 2005-07-06 17:01 | 法関係/legal studies